私たちのお父さんが お爺ちゃんが
もちろん お母さん お婆ちゃんが お星さまになってたら、私たちは生まれていないのです。
<友人のお父さんの話>
戦地でマラリアになり、隊から外れて 軍の病院に運ばれた
その間に、その所属していた隊は攻撃に遭い、全員戦死した。
その他にも
「命拾いしたから 私が生まれた」という話は たくさんあります。
戦後80年
戦時下で起こったことを語り継いできた 戦争体験者は少なくなっています。
風化させないために 私たち一人一人が出来ることは
祖父母 父母の体験を 子や孫の世代に話し継ぐこと。
私の父は 満州の一兵卒でした。
役目は 馬の世話
戦争が終わって、満州から 命からがら日本に戻ったのですが、
世話をしてきた馬との別れの話を聞いて、 わたしは幼心に覚えています。
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晶子、馬は本当に涙を流すんだよ。
馬との別れの時に 馬にブラシをかけながら、涙が止まらなかった。
それを見たお父さんが世話をしていた馬は 本当に涙を流したんだ。
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母は戦争映画は大嫌いだった 思い出したくにことなんだろう
それでも ポツンと話してくれたことが たくさんある。
・女学校ではほとんど授業などなく、学徒動員
軍需工場で戦闘機につけるダイヤモンド?を磨いていたこと
・女学校の校庭で槍のようなモノを持たされ「エイっ!エイっ!」と天に向かって突く練習をさせられ、
こんなことで 戦争なんかに勝てないな と思ったけど口に出せなかったこと。
・B29が来て空襲警報が鳴り、防空壕へ入って息を潜めていたこと
・住んでいた六甲の街が焼け野原となり、焼死体を跨いで 六甲山に逃げたこと
・食べるものがなく、芋の蔓をおかずに お米を数えられるほどのシャバシャバなお粥を食べたこと。
戦争が終わっても モノがなく、
列車に乗って田舎に米をもらいに行く。見つかったら没収なので、
お米をサラシで包んでお腹に巻く。冷たくて お腹が冷えた話や
おしゃれをしたくっっても モンベしかない。
要らなくなったカーテンの生地で自分で洋服を縫った話。
私は昭和29年生まれで、戦争を知らないし、
ひもじい という経験もない。
それでも 幼児の頃には 大阪駅やデパートの前で
包帯をグルグル巻いた兵隊の格好をした人や 足が片方無い人が物乞いをしていて、
子供ごころに 怖かった。
これらの話を 今年は 孫達に伝えようと思います
お墓参りは・・うぅ~ん 暑い!!
・・今年はお彼岸に・・(苦笑)